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大阪家庭裁判所 昭和55年(家)164号 審判 1980年2月05日

申立人 武本光子

主文

本件申立を却下する。

理由

一  申立の趣旨及び実情

申立人は申立人の氏「武本」を「鈴木」と変更することを許可する旨の審判を求め、申立の実情として、申立人は、離婚後称する氏につき深く考えることなく、また永い間の前夫との別居のあげく離婚になつたショックもあつて、氏名などどうでもよいと思つて離婚当時の氏を称する旨の届出をして現在に至つているが、その後実家の者から反対をうけ申立人自身も是非氏をかえた方がよいと感じた。加えて昨年末頃から再婚の話ももち上つてきたが、その相手の家族からも申立人が実家の氏を称することを強く要求されたので、この際氏の変更を許可されたい、と述べた。

二  当裁判所の判断

1  申立人の戸籍謄本、取寄せにかかる申立人の昭和五四年七月七日付○○区長あて「離婚の際に称していた氏を称する届」(いわゆる戸籍法七七条の二の届出書)(写)及び申立人の審問結果を総合すると次の事実が認められる。

(1)  申立人は前夫武本雄治と婚姻中の昭和四九年当時から、自宅において「武本商店」の看板の下に○○○○小売商を営んできたが、その後夫雄治と不和になり、昭和五三年一二月頃から夫は家を出たままで別居状態となり、翌五四年七月には夫婦は協議離婚するに至つた。

(2)  申立人は離婚に際し、友人から「今更氏がかわつて離婚したことを世間に云いふらさなくとも」と勧められたこと、また「武本商店」の看板で営業をつづけてきた実績や今後もこれをつづけるについて看板を書きかえることの煩わしさなどを考え、一方では永いあいだ夫と別居のあげくの離婚というショックに氏名などどうでもよいとの無思慮もあつて、離婚届をするに際して、離婚後も婚姻中の氏を称する旨の届出書を同日付で申立人自身署名押印して作成し提出した。なお現在も申立人は前記「武本商店」の看板のままで前記○○○○の店舗を経営している。

(3)  ところで申立人のそのことを知つた申立人の母から、申立人が離婚したあともなお婚家の氏を称しているのは、いつまでも他人のようであり、更に未だ前夫に未練をもつているかのようで不自然であり、家族と認めないとまで云われた。加え、昨五四年一二月から申立人に再婚話がもち上り、現在その婚約者と交際しているが、この方からも前同様理由で実家の氏から申立人を迎えたいと望まれ、その婚約者の親からは特に強硬にそのことを要求され、申立人としては甚だ困惑している。

2  ところで離婚によつて復氏すべき者が婚氏の継続使用を選択しながら、その後婚姻前と同一の氏に変更しようとする場合でも戸籍法一〇七条一項の許可を要するものであることはいうまでもないが、戸籍法一〇七条によれば、氏を変更しようとする者は、やむを得ない事由があるときは家庭裁判所に申立てて許可の審判を得てこれをすることができる旨定められているので、家庭裁判所としては、その審判をするに当つては、申立人のいう申立の実情その他に照して、それが同条の要件に叶うものか否かを審理しなければならないのであるが、その申立を理由ありとするためには、一般社会に広く是認され難いような合理的根拠に乏しい、単なる申立人及びその近親者などのような狭い範囲内の者の主観によるもののみでは足りず、申立人が氏の変更をしなければ申立人及びそれをとりまく社会一般人にとつて社会生活上著しい不便支障をきたすことが広く客観的に認識され、理解されうる程度のものがなければならないと解する。氏の変更について、同じ戸籍法に定める名の変更の場合における「正当なる事由」と異り、厳格性が要求されるのは、氏の変更が一個人の上にとどまらず、同一戸籍にある家族集団全員にその効果が及ぶものであること、氏は単なる個人の特定性の問題のみでなく、これを一つの社会生活上の構成単位として把握されている現代の取引社会において、安易にこれを動揺させることがあつては無用の混乱と損害を招くおそれなしとしないことによると解されるからである。

3  本件申立にこれをあてはめて考えてみるに申立人の述べるところはいずれも要するに申立人と、その周辺のごく一部の者らの主観にもとづく心理的な不便、不都合にすぎず、氏の変更を認めるやむを得ない事由にあたると客観的に認識しうる程度のものではないと云わざるを得ず、以下に説示する戸籍法七七条の二の届出の性質についての当裁判所の判断とも相まつて、申立人の主張するところは、すべて氏の変更を許可するに足りる理由に欠けるものと云わざるを得ない。

四  そもそも戸籍法七七条の二による届出というのは、婚姻によつて氏を改めた配偶者の一方は、その離婚によつて当然に婚姻前の氏に復するという原則に対する特別の除外規定であると解すべきであつて、これは離婚によつてその者の個人としての意思や利害を無視して一律に、当然に復氏させられることとなる一方当事者の精神的な、あるいは経済的、社会的に蒙ることあるべき不利益を軽減しようとする配慮から生れた制度であるから、この制度による利益をうけようとする復氏配偶者の積極的な作為(届出)を待つてその効果を生ずることとし、しがも復氏するか、婚姻中の氏をひきつづき称するか、いずれの道を選ぶにしても当事者においてその利害得失について熟慮すべきことを期待して、その適用をうけたいと希望する者は三ヶ月以内にその旨届出をすればよく、特に希望しない者は右届出をしなければ当然に原則にしたがつて復氏するという、あくまで個人の意思と選択にまかされた特例的規定なのである。これを側面からみれば、右戸籍法七七条の二の届出をしたということは本来ならば離婚によつて婚姻前の氏に復するべきところを届出人の意思によつて「それ以外の氏」を称する道を選んだという点で実質的には氏の変更と同然のことをしたわけである。したがつて、婚氏の継続使用を選択した者が婚姻前と同一の氏に変更しようとする場合は、婚姻中の婚氏使用の期間が特に短いとか、戸籍法七七条の二の届出につき虚偽表示や錯誤があるなど特別の事情のあるときはともかく、通常の氏の変更の場合よりも戸籍法一〇七条一項のやむを得ない事由をゆるやかに解すべきであるという意見は採用しがたい。申立人の主張するところの「離婚後もいつまでも婚姻中の氏を称するのは不自然だ」「未だ前夫に未練をもつかのように誤解される」というのは、前記選択にあたつて思いめぐらすべきことであつて、「氏」ゆえに招く誤解によつて折角の再婚の機会を逃したくないとする申立人の衷情は理解しえないではないが、それは自ら選んだ道であつて、当事者同志誠意を尽して根気よく話合つて解決すべきことがらであり、一旦氏の変更同然の手続をした者がわずか六ヶ月のちにこのうえ更に氏の変更を求めた本件申立を認めることは前記制度の趣旨に反し、戸籍制度ひいては社会全般の安定性の上からも認めることはできない。

五  以上要するに申立人の本件申立はその理由がないので却下することとし、よつて主文のとおり審判する。

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